で、何故に堀秀政?

五代目磯左衛門(父)は「平成堀家考」という書物を著しました。

 

その中に秀政との関係が記述してあります。あくまで父の少年期の思い出ですが。

 

確実に堀秀政と血縁関係があるとは言い切れないわけですが。

 

六、口伝と、証拠品の行方

その一 鎧・兜と、太刀その他

 鎧・兜は、市郎兵衛堀家に伝えられていたが、保存が悪かったのであろう、すでに無い。市郎兵衛堀家の最後の人は、医師になりたいがために高村という前田藩御殿医の家に養子に入り、家は絶えた。鎧・兜は、高村の家にあったものらしいが、ボロボロになって、いつの日か取り捨てたものだろう。

 その外の太刀などは、当堀家に伝えられていた。大刀、小刀、脇差、印篭、矢立等々。これらは昭和二十年の戦災によって焼失した。私磯雄は、少年期から、この大刀で薪割りをし、日に二束位つくるのが日課になっていた。

 この他に、掛け軸などもかなりあったが、刀具類と同様、戦火によって消失した。

 

そしてさらに、

 

七 ナゼ生地(いくじ)なのか?

 私磯雄は、少年の頃から「堀の家は武士の家」「堀の家は学問の家」と教えられ、「堀秀政は偉い武将」と聞いて育って来た。

 戦禍によって富山に移住し、少し落ち着いてからは、そのあたりの事情を調べて見たいものと思って来た。まだ調べるところまでいっていないが、類推するとこうなる。

 越前国の太守、堀秀政は小田原の戦に参戦して、死んだ。毒飼いされたとも、流行やまいにかかったとも言われたようだ。その子秀治は、上杉の去った後の越後国を通過したのである。・・・

 

結果、息子である私が、堀秀政と血縁関係があるのかないのか、調べ続けてきたのです。


いろいろ調べてきたわけです。