飯田堀家を訪ねて③・・・お詣り終えて、お土産とおそば
元善光寺のお詣りを終えて、まずはお土産屋さんに行きました。
飯田の町は水引生産の町とか。祝儀袋や不祝儀袋、結納の引き出物に使われているアレです。
ところが、高齢化とコロナの影響で生産技術の伝承が困難になり、需要も減っているという話を店主の方にお聞きしました。写真はありません。カリカリ梅干しとアマビエ塩飴を買って、そば屋へ向かいました。
そば屋の向かいにあったまんじゅうのお店。観光客が行列を作っています。飯田城の城下町だったし元善光寺の門前町だった関係からでしょうか、まんじゅうが有名らしい。茶色い皮と白い皮のまんじゅう、おいしかったです。「吉丸屋まんじゅう店」
さて、富山県を離れてから4日間、初の麺類をいただきに、元善光寺麓の「そば善」へ。
すでに4人がけのテーブルに4人の団体さんと、男性の外人さんと日本人の女性のお客さんが見えて、店主の男性が一人でてんてこまい。
細かい描写はやめておくことにして、おろしそばを注文しました。
おろしをのせたら泡が出るのはなんとなくわかりますが、どんぶり横の泡がカラフルだったのは洗剤のせいかな?ま、気にせずたべようっと!ご主人が一所懸命つくって下さっているのだから、感謝していただきました。ゆずの香りも素敵でした。(^0^)
飯田堀家を訪ねて①
今年の12月に岐阜市内で県外研修があり、参加しました。
以前から行きたいと思っていた飯田市。飯田藩は堀秀政公の次男親良公の長男親昌公が初代藩主。
また「一度詣れよ元善光寺 善光寺だけでは片参り」と言われる元善光寺があることを知り、是非是非お詣りしてみたいと思っていましたので、研修が終了してから、自費で名古屋周りでチャレンジすることにしました。
12月9日(土)名鉄バスセンター発の高速バス「飯田行き」を9時に出ると11時9分には飯田駅前につきました。
さ、ここから元善光寺駅へ行こう! 2000円チャージしたSuicaカードを出してっと・・・
え?カードが使えない?駅員さんが渡してくれたチケットもって、降りるときに現金で払いなさいって??
しかもあと1分で発車する向こう側のホームまでダッシュ!ダッシュ!ダンダンダダン!
ニコニコ笑っている運転手さんに招かれて乗車できたのでした。
飯田線はワンマン車両が多く、降りるときは1両目しかドアが開かないっていう・・・富山地方鉄道とか一畑電車と一緒ですよね!面白い!
堀家は二匹の龍が守り神だと勝手に思ってます
堀秀政は天智天皇の御代、藤原の姓を朝廷より賜った藤原鎌足の後裔、藤原利仁流の堀ですし、堀直政は第56代清和天皇を遠祖とする清和源氏の嫡流より発しています。
(足利氏→斯波氏→奥田)
堀直政は、堀秀政の従兄弟です。叔父の毛坊主と呼ばれていた一向宗の僧のもとに養われていました。当時は奥田直政でしたが、毛坊主さんから、「二人のうちどちらか一人が先に高名を挙げられたら他の一人はその家臣となり、二人協力して、堀の家名を興すことを第一と考えなさい。」と諭されました。
二匹の龍が動き始めた時だと私は思っています。
足利から斯波、そして奥田になった件や、細かい話はこれから時間をかけてアップしていきたいのですが、まず大事なポイントを、まずアップしておきたいと思いました。
嫡流が途絶えたとはいえ、斎藤道三に仕えて、織田信長に仕えて、本能寺の変の仇討ちで山崎の戦いで戦果をあげ、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍について勝利し、徳川家康にはいろいろ怒られながらもついて行き、堀直政の子孫は、徳川慶喜に進言してから江戸城で切腹した・・・
これ、堀家しかないと思うんですよね。他に戦国武将がいるならば教えていただきたいです。勉強させてください。
大織冠鎌足から藤原利仁まで
ここに「堀一族」という書物があります。父が誰かの伝手を頼って手に入れたもので、入手したときはたいそう喜んでいたのを覚えています。
この本は昭和49年1月吉日に発行されました。発行所は日本家系協会出版部、発行人麻生定夫とあります。限定600部発行。全国で何冊残っていますかね?
この本は、どちらかというと堀秀政系の堀に立ち位置を占めています。奥田系の堀すなわち直政については、あまり情報が多いとはいえません。
敬意を払って、十三ページの家系図より、鎌足から利仁までの系譜を、ここで間接引用させていただきます。
藤原朝臣 参議
右大臣 北家祖
魚名 ー 時長 ー 利仁 ー
民部卿 武蔵守
この書物の十六ページでは「鎌足の六世の孫利仁」とありますが、堀磯雄が著した「平成堀家考」では、魚名の子に鷲取がいて、その子が高房、その子が時長とあります。そして「鎌足から八代目の、鎮守府将軍・利仁」と書いています。
正しいのはどっちなのでしょうか?多分、平成堀家考の方が正しいんだと思いますが。
で、何故に堀秀政?
五代目磯左衛門(父)は「平成堀家考」という書物を著しました。
その中に秀政との関係が記述してあります。あくまで父の少年期の思い出ですが。
確実に堀秀政と血縁関係があるとは言い切れないわけですが。
六、口伝と、証拠品の行方
その一 鎧・兜と、太刀その他
鎧・兜は、市郎兵衛堀家に伝えられていたが、保存が悪かったのであろう、すでに無い。市郎兵衛堀家の最後の人は、医師になりたいがために高村という前田藩御殿医の家に養子に入り、家は絶えた。鎧・兜は、高村の家にあったものらしいが、ボロボロになって、いつの日か取り捨てたものだろう。
その外の太刀などは、当堀家に伝えられていた。大刀、小刀、脇差、印篭、矢立等々。これらは昭和二十年の戦災によって焼失した。私磯雄は、少年期から、この大刀で薪割りをし、日に二束位つくるのが日課になっていた。
この他に、掛け軸などもかなりあったが、刀具類と同様、戦火によって消失した。
そしてさらに、
七 ナゼ生地(いくじ)なのか?
私磯雄は、少年の頃から「堀の家は武士の家」「堀の家は学問の家」と教えられ、「堀秀政は偉い武将」と聞いて育って来た。
戦禍によって富山に移住し、少し落ち着いてからは、そのあたりの事情を調べて見たいものと思って来た。まだ調べるところまでいっていないが、類推するとこうなる。
越前国の太守、堀秀政は小田原の戦に参戦して、死んだ。毒飼いされたとも、流行やまいにかかったとも言われたようだ。その子秀治は、上杉の去った後の越後国を通過したのである。・・・
結果、息子である私が、堀秀政と血縁関係があるのかないのか、調べ続けてきたのです。
いろいろ調べてきたわけです。