堀家(秀政系)の祖先は藤原氏だった
堀秀政家の祖先は、(第三十八代)天智天皇の御代の八年(六六九)十月、藤原の姓を朝廷より賜わった大職冠中臣鎌足にはじまる。
この鎌足の後裔である鎭守府将軍藤原利仁(としひと)から数えて八代の孫にあたる権大夫藤原季高(すえたか)が堀家の祖となった。
私の父は、よく言っていました。「堀は藤原の朝臣だぞ」と。耳にタコができるほどで
した。だけど、堀秀政とのつながりが分からなかったのです。
なぜ、藤原が堀になったのかも、分かりませんでした。
それが、とうとう明らかになったのです。
すなわち美濃国内での戦いに出陣した季高は、敵将に見参して数回の撃ちあいののち、面倒と馬上に四ツに組みわたり、もみあっているうちに、ともにどうと地上に転げ落ち、なおも死闘を繰り返し、ついには力のすぐれていた季高の鎧通が敵将の喉元をつらぬき、首級が上げられ、その見事な戦い振りに、なみいる敵も味方もときの声を上げて、季高の勇武を讃えたと伝えている。
この美濃国内の武功の地を「堀之内」といい、のちに季高はその地名をとって氏とし、堀季高と称したのである。
鎧通(よろいどおし)というのは、今で言えばペティーナイフのような形状で、鎧の隙間から敵の体に向かって攻撃できる武器らしい。
敵も一緒にときの声を上げるっていうのは、敵の組織の統制がとれてなかったのかなと思ってしまいますが、それほどに激しく戦われたのだろうと想像し、尊敬の念を抱きます。